サピエンス全史

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福新しい人間感を提示する面白い本だった。
人間の進化を認知革命、農業革命、科学革命という視点で分析している。
それぞれについてユニークな見方をしており、人間や社会についての常識が覆る。
また、経済的なメリットではなく、人間は幸福になったかを問題にしているのも面白い。

最初の革命である「認知革命」では、人間は言語を手に入れた。
言語は、集団の構成員についての「うわさ話」をするために発達したようだが、そのおかげで他人に対する評価のレベルが上がり、多くのメンバーでの協力作業が可能になった。
また、言語は、存在しないモノを共有することを可能にした。
神話や国家、宗教、文化、お金のような幻想を共有することで、動物では考えられない大規模の集団で、共同生活が可能となった。

次は、「農業革命」である。
農業の発達が、人類の飛躍だと考えるのが通常だが、この本では、「小麦による人類の家畜化」と捉えている。
「農業革命」による食糧調達の向上により、人口は増加し、余暇は増え、エリート層が発生した。
しかし、人類全体ではなく、各個人の視点で見ると、狩猟採集民時代よりも食べるもののバラエティはなくなり、労働時間は増えた。
定住し、人口密度が高くなったことにより伝染病が蔓延し、単一の作物に依存したため飢饉によるリスクが高まった。
人類全体では数が増えたが、構成員個人は幸福にはならなかった。
一番恩恵を受けたのは、小麦等の作物たちだったと言うのだ。

「科学革命」では、人間は自分たちが「無知」であることを認めたことで始まった。
それまでの社会では、全知全能の神がすべてを知っていることが前提で、司祭などからその知識を得られるとしていた。
そして、「無知」であるということは、知識を得ることで前進が可能だという意識に繋がる。
その進歩の思想は、科学の発達と資本主義と相性が良かった。
資本主義の拡大再生産は、よりよい未来が必要であり、その幻想が現代も推進力となっている。
過去こそが素晴らしかったとする宗教とは大きな違いである。
生活規範にまでなった自由資本主義だが、あらゆるところで倫理が存在するわけではない、という問題がある。

現代は、人間中心の自由資本主義である。
これは、キリスト教を由来とする考え方だが、自由と平等は必ずしも両立しない、という矛盾を内在している。
人類の歴史の中で生まれてきた様々な幻想と、現在の社会の根本となっている幻想を比べて見た時に、我々もまた客観的・科学的に生きているわけではないことが実感される。

想像してみてほしい。もし私たちが、川や木やライオンのように、本当に存在するものについてしか話せなかったとしたら、国家や教会、法制度を創立するのは、どれほど難しかったことか。

狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時間を送り、飢えや病気の危険が小さかった。人類は農業革命によって、手に入る食料の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だった。

それでは私たちはなぜ歴史を研究するのか? 物理学や経済学とは違い、歴史は正確な予想をするための手段ではない。歴史を研究するのは、未来を知るためではなく、視野を拡げ、現在の私たちの状況は自然なものでも必然的なものでもなく、したがって私たちの前には、想像していたよりもずっと多くの可能性があることを理解するためなのだ。たとえば、ヨーロッパ人がどのようにアフリカ人を支配するに至ったかを研究すれば、人種的なヒエラルキーは自然なものでも必然的なものでもなく、世の中は違う形で構成しうると、気づくことができる。

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