脳はなぜ「心」を作ったのか

脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫)「心」すなわち「意識」がなぜ作られたかを進化の観点からシンプルな仮説を提示している。
とてもわかり易く、納得のいく仮説なのだが、本当にこの通りなら、人間の神秘性が失われ、少し残念だ。
しかし、マービン・ミンスキーの「心の社会」以来のパラダイム・シフトと言える考え方である。

心の機能を「知」「情」「意」「記憶と学習」に分けて、それぞれが脳のどの位置に配置されているかから解説している。
現在の科学では、機能として、それらが脳のどの部位に存在するかまではわかっている。

もうひとつの視点として、主体たる「私」はどのように存在しているかを考察している。
この私が、普通に想像される「心」であり、「意識」である。
人間の思考は、脳内の複数のモジュール(本書では「小人」と呼んでいる)が並行処理することによって行われている、という考え方はミンスキーと変わらない。
複数の処理の中で何が優先されるかについては、小人たちの多数決で決まるとしている。
いくらなんでも強引な気がするが、小人をニューロンと考えると、結合の強いニューロンが優先されるのは、分からないこともない。

人間の情報処理は、意識とは関係なく、複数のモジュールが並行で実行し、意識はその結果を眺めているだけだ、というのがこの仮説のポイントである。
意識は、決定をしているのではなく、決定を観察して、自分で決定したという錯覚をしているというのだ。
そして、重要な事項をエピソード記憶として記憶するために、情報を物語に加工している。
そのために「意識」は発達したと言うのだ。

「意識」を中心とした「天動説」から、「意識」は決定に関与しない記憶のための仕組みと考える「地動説」への大きなパラダイム・シフトである。

非常に刺激的で、シンプルな仮説だ。
この考え方を進めると、「意識」自体は小さな機能であり、ロボットが「意識」を持つのも難しくないと考えられる。
また、「意識」を元にした人間と動物の区切りも、今とは違ったものになる。

もっと注目されても良い仮説だと思う。

つまり、「私」たちが主体的に行っていると持っている「思考」という行為は、実は無意識下の小人たちが行っている自律分散計算だと考えられるということだ。(中略)「考えた」のは実は自分の「無意識」の小人たちであり、「私」はそれを「ひらめいた」かのように錯覚しているに過ぎないということを表している。

つまり、エピソードを記憶するためには、その前に、エピソードを個人的に体験しなければならない。そして、「無意識」の小人たちの多様な処理を1つにまとめて個人的な体験に変換するために必要十分なものが、「意識」なのだ。「意識」は、エピソード記憶をするためにこそ存在しているのだ。「私」は、エピソードを記憶することの必然性から、進化的に生じたのだ。

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