父という余分なもの

父という余分なもの: サルに探る文明の起源 (新潮文庫)サルやゴリラなどの生態に興味がある。
人間と同じ類人猿の社会を知ることで、人間社会の成り立ちや倫理の発生源が理解出来るかもしれないと思うからだ。
著名な人類学者である山極寿一の研究は、そんな興味にピッタリの本である。
ただ、幅広い研究だけに、若干ややこしく、読んでいて混乱するところもある。

タイトルとなっている「父という余分なもの」の意味は、人間以外の動物は父という存在を常に必要としていないことからきている。
オスは遺伝子を提供するだけで十分であり、「父」という社会的役割は必要としない。
では、なぜ「父」が必要なのか?
著者は、その起源をゴリラにみている。

ゴリラは一匹のリーダーオスと複数のメス及びその子供でグループを構成している。
ゴリラにおいては、リーダーオスが自動的に「父」として認められるわけではない。
メスと子供からの二重の選択を得て、父親としての行動が発揮できる。

このように、認められることで生まれる「父」とは虚構の存在である。
父親とは動物にとって本来余分なものだが、構成員の同意で作られる文化的構造物であり、人間の文化の出発点である。

その他にも共食と文化の関係や類人猿の食物と性行動による棲み分け、「遊び」の意味など興味深い研究や知見が多い。
ただ、チンパンジー、ゴリラ、オランウータン、ボノボなど、それぞれの場合についての説明があり、パターンが多くて混乱する。

新しく加入した群れで順位を上げていくためには、すでにいる群れオスたちを力で圧倒するだけでなく、メスたちの支持を得なければならない。
この手段として新参者のオスたちは幼児を利用することがある。特定の幼児と親しくなって、その母親から信頼を得られれば、メスたちから攻撃されなくなる。また、幼児と一緒にいることによって、ほかのオスも攻撃しにくくなる。そのオスを攻撃すると幼児の母親や近親者から反撃される恐れが生じるからである。この行動は「攻撃的緩衡」と呼ばれ、地上で集団生活を営むヒヒやマカクによく見られる。

いってみれば、父親というのは、父親である必然性がないわけです。それを維持するためには、文化的なものが必要です。生まれたときから共同の基礎をもっていないものが、共同体を支えなくてはいけない。そのために何かの認知、集団的な認知が必要なんです。

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